夫・原口徹を覚えて
- family
- 2020年4月26日
- 読了時間: 4分
夫を思い出す文章を書く時が来るとは想像もせず、30年の結婚生活を送りました。
出会い、結婚し、子どもが与えられ、彼の赴任先の教会での様々な時を共に生きてきました。
病気が発見され、共に生きる日常生活が限りあることだと、解ろうとしていました。
しかし、どこか現実を捉えきれず不安を抱えても能天気に過ごしていました。
2009年10月、私がバプテスト女性連合の総会・大会から帰ってきた後に、一緒に散歩に行こうと誘われました。
途中の中学校付近の桜並木で、「この命は1年だと言われた」と告げられました。
私が出かけている間に、定期健診で宣告されたとのこと。
呆然とする反面、「医者は最悪のことを言うから、来年のクリスマスも大丈夫」と妙な事を思いました。
彼に対する励ましも、優しい言葉もかける余裕もなく、ただ黙って一緒に歩きました。
最後の礼拝となった2010年1月17日は、寒い日で、コンピューターの始動ができず、週報の印刷が出来ませんでした。
その巻頭言は、前週に私が出席した「3バプテスト女性会の研修会の報告」を私が書きました。
前日に私が「書こうか?」と尋ねると「頼む」と言われたのです。後で思えば、週報の文章を書くのも辛かったのかと。
主日礼拝では立つことが出来ず、ストーブを近くに寄せて、椅子に座っての最後の説教でした。
「こんなことは初めてです」と、照れながら苦笑した顔が思い浮かびます。宣教はいつもと変わらず淡々と、最後までしっかりと語りました。
私の中には、彼から余命1年と言われた言葉がずっと残っていました。
彼が痛み止めを飲んでいることも最後の時期に知った有様です。
1月19日最後となった病院の検診の時、一緒に行きました。
入院を勧める医者に、西南女学院の授業があるから、それが終わってからと入院を拒みました。「
次は救急車で緊急入院ですよ」と医者の言葉があり、わたしが怖気づいて、入院するように頼みました。入院後も、一時帰宅して授業や礼拝に出席すると言っていました。
最後の息を見届けて、遺体は葬儀会場のシオン山教会へ運ばれました。病気の発見からずっと、多くの方々にお祈りいただき、気にかけていただきました。
葬儀には全国から思いもかけないような方がたまで駆け付けていただきました。
授業を受け持っていた西南女学院の学生さんたちも多数出席してくださいました。有り難いことではありましたが、実は彼は居なくなったのを気付かれないままに、そっと逝きたかったのかもしれません。それが自分らしいと。
医者からの余命宣告は「3か月」ということを亡くなった後に知りました。
では私に「余命1年」と告げたことは、何だったのだろうとずっと考えてきました。
その事を受け止める力が私にないと判断したのか―それもあるでしょう。
30年一緒に歩んできた私のもろさが解っていたのでしょう。
また私にとって彼は牧師でもありましたから、そう判断したのかもしれません。
でも、最近思うのです。私たちに「さようなら」を言いたくなかったのではないかと。
自分が亡くなった後の牧会教会である直方教会に関しては、神様に委ねるという判断をしたと思います。最後の入院を説得されたその時も、ベッドの上から、ある医者にセカンドオピニオンを求める電話をしていました。
家族と別れるということには、本当に別れ難い思いを持っていました。しかし、最後まで生きることに一生懸命向き合う姿を残してくれたことは、家族である子どもたちにとって、遺された者への生きることへのエールであり、私にとっては感謝であり誇りです。
それが確実に私たちに残された宝であると思います。私は彼の妻でしたが、彼は私にとって夫であり、牧師でした。
私たちは余りにも違いが多くありました。しかし、だからこそ彼の人を見る視点、人生観、社会観、聖書への向かい方、人生を楽しむ視点、いずれも私にとって興味をそそられるものでした。一緒に歩くことが出来たおかげで、私の人生は豊かな、面白いものとなりました。お酒の飲み方については最後まで理解できませんでしたが・・・・・。彼は柔和で温厚な人でしたが、何事にも足りない私が残されてしまいました。
私は彼に対してよいパートナーではなかったかもしれませんが、一緒に生きることが出来たことを心から感謝しています。
ただ30年間、ずっと隣で聞いてきた讃美歌が聞けないことはいまだに淋しいことです。しかし、「ナルドのつぼ」と「球根の中には」の賛美歌で送った原口徹は、私たち家族の中に確実に今も分かち難く生きています。
原口悦子

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