お礼のメール
- family
- 2020年5月23日
- 読了時間: 11分
吉田恵子(実姉)
「轍」、本当にありがとうございました。本の名前からして素敵ですね。轍の字が徹さんの字に似てるなんて、初めて知りました。すごくふさわしい言葉ですね。この言葉だけでも、深く思考していく気持ちになります。景色の色も雰囲気もおちついていて気持ちが深まります。
「序文にかえて」の文の中の「幸いこどもたちは、私を妙におそれたり、甘えてきたりはしない。お父さんが機嫌のいい時には、少し図に乗り、機嫌が悪いと思えば、上手に逆らわないようにしている。何のこともない。私も身勝手な父親の一人であり、子どもたちは、私に適応しているのである。私は、子どもたちに感謝しなければならないのだ。」の言葉の所で、私は、久しぶりに徹さんに出会った気がしてとてもなつかしかったです。
悦子さんの文にあった「好奇心の塊」、
明里さんの文にあった「歌を歌う事や本を読む事が好き」「私の父は変わっているんだ」
創くんの文にあった 「何ももたなかった父」「不思議」
建くんの文にあった 「温かみ」
ほんとうにそうだと共感しながら読ませていただきました。
何度も話したことだけれど、徹さんについて、私の父は、「天才じゃなかろうか。」とおどろいていました。まだ、徹さんが5才の頃、鶴亀算という連立方程式の問題を、夜いっしょに寝ながら父が問いかけたら、すぐに答えたからです。私はさっぱりわかりませんでした。
物理が得意で85点以下とったことがないという。私は、28点以上とったことがありませんでした。
「何でそんなにわかるの?」と聞いたら、「わからないということがわからない。」と徹さんがいいました。
でも物理を28点しか取れない私を下に見るのではなく、本当に不思議そうにいうのです。
創くんがいう通り、そんなで時さえ、何も持たなかった徹さんでした。そんな物理がわかる能力も、性格のひとつとしか思っていないようでした。
明里さんがいうように、徹さんは、本が好き,歌うことが好き。
徹さんが小学校4年で私が中学1年の時、父が少年少女世界文学全50巻を注文して、それが毎月1巻ずつ来ました。私も楽しんで読みましたが、小学校4年の徹さんも同じように楽しんで読みました。
「おねえちゃん。この曲をハモって歌おう。」とよく言ってきて、いっしょに合唱しました。
徹さんの声は、父ゆずりでとてもよく、私の声は母ゆずりであまり声がでませんでしたが、私も歌うのは好きでとても楽しみました。父も毎朝、庭にむかって朗々と歌っていました。
今はよく宴会で、徹さんを思い出して「ハモって歌おう。」とみんなによく言って楽しんでいます。その時は、徹さんと合唱しているようで、とても懐かしくて楽しいです。
好奇心の塊、高校の友達と熊本県の阿蘇山まで泊りがけでサイクリング。その時、台風が阿蘇山の周りをぐるりと回って、そんなことがあるのかとびっくりでしたが、数日足止め。父が迎えに行きました。
高校一年の頃は、ユークリッド幾何学に夢中になっていて、夜、寝ている私をたたき起こして、「おねえちゃん!うさぎは亀に勝てないと論理が見つかった!」と大喜びで説明しました。「そんなことありえないよ。」というと、どうしたら姉がわかるか、いっしょうけんめい考えていました。それでも無理なのであきらめましたが、だからといって徹さんにとって軽蔑も不満も無縁のもので、たんたんとまた次の好奇心の先に行っていました。
高校2年ではアインシュタインの相対性理論にはまり、私に、よくそのことについていろいろ言ってきましたが、私はさっぱりわかりません。
こんなに難しいことを言ってくる弟の相手をしなければならないなんて、私は、なんて大変な姉だろうと思ったこともありましたが、わからないなりに、徹さんがいろいろ言ってくることに対応して議論することは不思議と楽しかったです。
私がわからなくても、さげすむことは決してせず、常におだやかで、私がどうしたらわかるか一生懸命考え、議論の中で発見することがあったら目を見張って探求しました。そして、健くんがいうように温かみがありました。
私は、議論というものは、楽しいものだと思っていましたが、教師として就職して社会に出ると、議論して心を傷つける人々にたくさん出会い、徹さんのような人は、むしろめずらしい存在なのだと思いました。
明里さんがいうように、変わった人なんだけれど、とても貴重な性格だとも思いました。
当たり前だと思っていたことが当たり前ではなかった。私は、徹さんのおかげで幸せな子ども時代を過ごせたと感謝しました。
思えば、姉弟でけんかしたことも、小さいころも含めて一度もありません。
徹さんが、文学全集全50巻を友達に勝手にやってしまったとき、私は抗議しましたが、その時も不思議にけんかにはなりませんでした。
なので、「轍」の序文に、こどもたちを怒った話が書いてあったのにはびっくりしました。徹さんも怒るなんてことはあったんだと。親としての責任感からでしょうか。でも怒ったことをすぐに反省していたから、やっぱり徹さんだと思いました。
徹さんは色盲だった。赤と緑が重なると灰色みたいになって識別できないなどと言っていました。物理が得意だったから、色盲でなかったら、物理の教師の人生だったかもしれません。
ですが、徹さんは、「色盲だから、物理方面にはすすめない。」とはいっていたけれど。次々にむちゅうになることがあって、悲壮感はありませんでした。
徹さんが、「佐賀バブテスト教会で洗礼をうけた。国際キリスト教大学に行く。そこしか受験しない。」と高校3年の時に、両親に言いました。
両親はとてもおどろいてひどく心配しました。
父方の祖父は、浄土真宗の信奉者で、毎日、いついかなる時も、「南阿弥陀仏」を繰り返し唱えていました。おじいさんと日常会話もしたこともありませんでした。
父方の祖母は、父の弟の文次郎叔父さんが、長崎大学医学部学生の時に長崎原爆で被ばくし、放射線による、なかなか体が再生できない地獄の苦しみの中で奇跡的に助かり、長崎大学医学部助教授にもなったのに、クリスチャンになったと聞いて、激怒し、「親子の縁を切る。」と言ったのです。
両親は、「これから先、どうなるのだろう。とにかく、おじいちゃん、おばあちゃんには、絶対に知られないようにしておかなければ。」と言っていました。
私は、そんな両親や徹さんを前にして、「大丈夫。徹さんは、習字は10級をとったらすぐ辞めた。剣道は、道具を買ったとたんに辞めた。ユークリッド幾何学も1年で辞めた。アインシュタインも熱中したのは、1年だった。毛沢東語録は半年だった。キリスト様ももうすぐ終わるよ。」といいました。
徹さんは、いつものように、おちついてだまって聞いていました。
徹さんは、高校の時、ほとんど受験勉強はしなかったので、物理は85点以上でも、英語は40点未満で落第点でした。
生徒会長に立候補する人がいなかった時、「誰も立候補しないというわけにはいかない。」と言って立候補したときも担任の先生は反対しました。「そんなことをしたら大学に上がらない。」と。
でも徹さんは、立候補して、生徒会長に。そのころだったか、日中友好関係のびらを配る同じ高校生の友人の手伝いをして、注意されたりしていました。私も徹さんに誘われてその会に一度だけいきましたが、とてもまじめに、世の中のことを考えている会のようでした。が、そのリーダーだった友人は、出停などの処分を受けていました。
父はそのことで徹さんを叱ったりはしなかったので、父もよくわかっていると思いました。
英語が落第点なのに、国際キリスト教大学受験に合格できるなんてありえないとだれも思っていました。
東京で受験して帰ってきた徹さんに、「試験どうだった?」と聞いたら、「アルファベットの文字をランダムにならべて、何の単語だと聞いたりしていて、英語の試験なんかパズルみたいだった。」と答えました。結果は合格。不思議としか言いようもなく、親が不正な事をしたのかといわれたりしないだろうかと密かに心配しました。
国際キリスト教大学を卒業しても、牧師の資格はとれないとわかり、牧師になるために西南大学神学部へ。そこで悦子さんと出会えたことが、徹さんにとって最大の幸運でした。徹さんの生涯にわたる幸せな人生が約束されたのです。両親も私も本当にほっとしました。
徹さんが牧師になって、とても感心したのは、決して裕福ではないでしょうに、ホームレスの人のための炊き出しを夫婦でされたこと。お正月の日の悦子さんの衣装が、バザーの品といわれたこともとても心を打たれました。
こどもたちもそれぞれ、自分でアルバイトをして、外国に留学までして難しい大学を卒業し、よい仕事を続けていて本当にすごいです。
悦子さんはじめ、子どもたちや御友人の皆様が、徹さんをどんなに大切に思ってくださったかを御本の「轍」で知り、徹さんは、とてもとても幸せだったとしみじみ思いました。
母は、さっき言ったことをよく忘れたりするようになり、冷蔵庫の中のものの認識も難しくなってきたので、この頃から、毎日、母の夕食を作りに、母の千代田町のマンションに通っていますが、父と徹さんの写真は、いつもとてもうれしそうです。
母も轍の本をとても喜んで一生懸命よんでいました。母の余生を力づけてくれる事でしょう。
私と徹さんは、小さい時から、市役所勤務の父が、会議後の宴会で飲んで帰ってくる度に、私達を前に独り言のように繰り返し繰り返し話していたのを聞いてきました。「自分が、文次郎に長崎大学医学部進学をすすめなかったら、文次郎は、被爆せずにすんだ。」「戦時中、二等兵で満州に行って、毎日上官の命令は天皇の命令と思えといわれ、なぐられたり、けられたりした。零下30度の寒さの中でトイレの明りをたよりに、試験勉強をして、上官試験にあがって、少尉や中尉になったので、それまで自分を虐待していた伍長さんは、びくびくしていた。でも、この人も戦争の犠牲者だと思ってしかえしはしなかった。」と、そんな話を何度も何度も。
文次郎おじさんは奇跡的に助かって、元気だったので、どうして父がそんなに苦しむのか理解できませんでした。
でも、文次郎叔父さんが、佐賀大学の病理学夏季集中講義の講師として、佐賀大学教育学部の学生だった私に、授業の中で、「江戸時代に、大工さんが、病気になった我が子を助けてくれといわれ、どうしようもなくて、手を握っていたら、よくなって、名医という評判になった。人には、免疫機能、再生力があり、大方の病気は自分で治せる。薬は、症状を緩和するだけ。」という話をしました。そして、その時、文次郎おじさんは、熱があったのに、薬ひとつのまず、夜は私達家族と談笑して、1週間私達の家に泊まった後すっかり病気もよくなって長崎に帰ったということがありました。
その後、JCO臨界事故で、大量に被ばくした作業員のかたが、体の設計図の染色体がばらばらになり、再生力を失って臓器も筋肉もぼろぼろになり、あらゆる皮膚を失って、壮絶な苦しみの後、83日後に亡くなられたことを知り、叔父の手記も読み、体がなかなか再生できない苦しみの中に叔父も数か月いたことを思い、父の苦しみがわかりました。
私が、それで、原発を止める活動もして、自作のちらしを徹さんに見せたら、「僕もやっているよ。」と一言だけいいました。でもそれ以上の話もなく、徹さんが亡くなった後に「なぜですか闇を照らすいのちの叫び」の本を読んだ時にとてもびっくりしました。そして、同じく原発の問題を取り組まれた野中牧師や、水俣病を取り組まれた原田正純先生とも、出版記念会の時にお話しできて、とてもうれしかったです。徹さんも同じ思いで、取り組んできたのだと思いました。
バブテスト教会には、公害問題を考える委員会があるということも、西南大学で、公害問題について集中講義を公害委員会の皆様で取り組まれ、徹さんも主体的に努力していたことを初めて知って、とても心強くうれしかったです。
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また、父が天皇主権の明治憲法時代に、「上官の命令は天皇の命令と思え。」となぐられ続けたことは、日本国憲法の国民主権、基本的人権、平和主義の大切さがよくわかる事例で、私も、日本国憲法を守ることにつながる活動もしてきました。
徹さんから言われたことではありませんが、聖書や聖書物語をいくらか読んで、キリスト様は、人権を守ることの大切さを、そして人権の守り方を、人々に話して行かれたのではないだろうかと思っていました。
なので、徹さんが、牧師の仕事を通じて、みんなにとって大切な人権を守ることにつながる努力をしていると思い、心の中で応援していました。
御本の原稿を建くんから依頼されていたにもかかわらず、原発を止める活動や核兵器廃絶のための活動や障がいがある青年たちの太鼓支援や特別支援教育究会、憲法の国民主権、基本的人権、平和主義を守る活動のための様々な市民グループに対する支援や責任を果たす仕事が毎日山のように有り、それに追われて対応できなくて恐縮しています。御本を読み、お礼という形で思いを伝えることがやっとできました。
序文の徹さんの言葉や、悦子さん、建くん、創くんの言葉を踏まえて考えることで、徹さんの本質もようやくわかった気がしました。わたしの原稿が間に合っていたとしても、徹さんの本質からは離れたところでの原稿の内容になってしまっていたと思います。
原発を推進している学者さんたちの説明に出会う時、徹さんが言っていた「うさぎはかめに追いつけない論理はある。」と思ったけれど、それは、そんな論理があったと嬉々として喜ぶことではなくて、とても恐ろしいことだと思うと、徹さんが生きていたら言うだろうと思います。
でも、轍の本を読んで、徹さんの本質を考え、徹さんの反応を想像してみました。徹さんは、きっと、少し目を見開いて、そのことにまた興味を持ち、探求していくんだろうと思いました。
轍の本を毎日少しずつ読み返すことで、楽しかった子ども時代の徹さんとのかかわりの時を思い出せるのは、本当に幸いなことであり、様々取り組む上でも貴重な糧となると思いました。本当にありがとうございました。
最後に徹さんが小学校3年の時に書いた詩と小さい頃の写真を送ります。徹さんを思い出す時の私の心の中の徹さんなのです。 文責 姉 吉田恵子
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