原口徹君のICU時代から
- family
- 2020年4月26日
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原口徹君が国際基督教大学(InternationalChristianUniversity, ICU)に入学されたのは 1973年の春である。大学は教養学部のみの一学部制で、4学科が置かれ、当時の学生数は 大学院と学部合わせ1000人ほど。前年に入学した私は、同じ大学の学生、同じサークルの 部員また同じ寮の一員としてあの時期を共にした。 まずICUグリークラブと原口君のことを話そう。彼が入学早々加入したこのグリークラ ブは混声合唱団で、開学期から続く学生サークル。レパートリーは、16世紀を中心とした ア・カペラのポリフォニー合唱曲と編作曲による黒人霊歌そして日本の合唱曲所謂法人作 品である。彼の入部後程なく次のようなことが伝わってきた。曰く「自分は牧師になるつ もり。ICU入学の目的は2つあり、牧師の前に知識、教養を深め年をとることと、賛美のた め歌がうまくなること」と。これは入部の自己紹介ではない。このようなことをいきなり 言い散らすことはない。おそらく当時の部長M君が聞き出し、私たち部員に伝えたことで あったろう。フランクに話されこういう話が出たかもしれない。原口君はテノールのパー トに所属、最終年次までステージに立った。歌の上達はわからぬがグリークラブの時を通 じて、彼が歌への善き思いをはぐくんだのは確かだと思われる。彼はICUで入学の目的の 一つにあげたことは、このように成った。 原口君の学業周辺について書こう。「牧師になる」と聞いて、「変わってる」と思った が、学生一般の進路として単に珍しかったためである。彼はむしろ学生らしい学生で、学 業やその他の活動に励み、友と語らう日々であった。彼にはさらに教会生活があったと思 うが、ICUには殊のほかキリスト者の学生、クリスチャンホームの子女が多かったとはい える。入学選抜の要件では全くないのにである。学生の進路として企業就職が過半ではあ ったが、大学院進学、他大学への編入、公務員、教員、通訳、国際機関職員、そしてあの 頃、各期から1名ずつ程牧師が生まれていった。さて、彼の学業はと言うと、そこそこだ ったかと思われる。なかなか優秀な学生も多く、特に女子学生は学業熱心、賢く、見識あ りまことに素晴らしく、われわれ男子学生はとてもかなわないのであった。それでも彼は 、1年次の英語集中プログラムを乗り越え、1年次最終期の英語論文も提出し、4年次の卒 業論文も成しとげて、立派に4年で人文科学科を卒業した。最も苦労があったのは2年次だ ったか。科目はギリシア語。古典ギリシア語とコイネーで違うにしても、将来の神学部で 必須の語学であり、避ける訳には行かない。動詞の活用20幾通りとかいう古典語。担当は 高名なギリシア古典学者で、極めて優秀な卒業生でもある厳格なK先生。私などにまで弱 音を吐いて聞かせたほどだったが、彼は単位を取得した。学業で覚えめでたいとは言えな い学生であっても、先生方に愛された。それは彼が怯まず取り組み、いじけずに先生方と 対話したからかと思う。原口君の卒業論文はその証拠と言えそうである。タイトルは「ソ クラテスと神的なるもの」、指導教授はあのK、川島重成先生であった。かくて彼がICUに 来た目的は成った。 原口君の寮とアパートのことに触れよう。学費の低いころではあったが、地方出身者に とって諸費用は厳しく、かなりの数の学生が寮に入った。彼も3つの男子学生寮の1つ、カ ナダハウスに入寮した。私は前年9月から同寮に居た。各寮には寮母さんが在任。学園紛 争の時を経てなお、良き時代の名残はあったようだ。安心な環境ではあったが、学部学生 の寮に個室はない。3年次くらいから学生アパートに出る者は、特に男子に、かなりいた 。近傍に、地元農家などによる低廉な学生アパートがあった。原口君は「チューリップハ ウス」、私は「大沢ハウス」で学生時代の後半を送った。教会、学業、サークル以外の、 彼の多くの時間は友人たちとの語らいであった。もちろん学生寮のころからなのだが、ア パートでそれは増し、時に飲酒を伴う長時間のものとなった。そもそも彼は友人の少ない 方ではなかったと思う。以前からの友人、大学時代の友人ほか年代を問わぬ方々も。面倒 がらずによく話をした故であっただろうか。さて、彼の酒は概ね良い酒であった。話が続 き調子に乗って深酒もあった。失敗談に、翌朝「火事だ」と飛び起きたというのがある。 ベッドにちゃんと戻ってはいたが、血の付いた眼鏡をかけたまま朝になり、視界が赤かっ たのだ。帰途何かにぶつかったらしい。「だれだ」事件というのも語ってくれた。朝目覚 めると知らない手が頭に。恐怖に叫び声を上げると、変な姿勢で寝入った片腕が痺れただ けだったと。どちらも一度だけのことで、彼がしばしば飲酒したわけではないが、学生ア パートには個性的な面々もいて、語らう時は多かった。蛇足だが、ある高名な牧師の娘さ んが入学され、いわゆる帰国子女で活発闊達にして魅力的な方ゆえ、彼が一方的に熱をあ げていたこともあったようだが、いっとき酒量が増えていたかもしれない。 原口君のグリーと酒そして高校時代のことに触れたい。ICUの学生の気風は穏やかで、 年次や年齢にかかわりなく、よく語らったものだ。飲酒の機会もあり、話し込む中で酒も すすみ、言い込められた彼が、「なんこー」(地元の言い方で、何であるかという意味ら しい)と声を上げたことも、時にあった。九州男児らしいと思われたが、彼の印象を「お いどん」と言う者もある。人気漫画「男おいどん」から来ている。彼は品が良いのであて はまらない気もするが、その時分「佐賀ではこうだ」とか「佐賀は九州の中心だ」とか酒 席で言ったことはあったと思う。実際、地元のことを良く見聞きし学んでいたと思う。部 員の飲み会で、したたかに酔った彼が、「北帰行」の替え歌を歌いながら酔いつぶれたこ とをよく覚えている。「影響我を去りゆく」と延々繰り返すのだ。この歌は出身高校で学 校祭(行事の正式名称があると思う)の最終日、ファイアーストームのクロージングソン グとして歌われたと聞いた。その高等学校は佐賀西。伝統校で進学校と。彼は生徒会長を 務めたそうだ。お調子者というより、面倒を厭うことなく引き受けて取り組む姿勢の故と 思う。伝統ある行事のリーダーのとき、その手応えの残像が、酒席でのあの替え歌でもあ ったろうか。彼の高校時代で外せないのは、ギリシアへの関心の芽生えかと思われる。こ のことは、後日ICUでの出来事から推測できる。原口君は「アテネは佐賀県と同じ面積」 と教えてくれたことがあった。高校生時分に読んだ創元選書「概説西洋史」に記述ありと 。その頃はまだ教養主義的な気風が残っていたのか、学習参考書などとは別に、名著や教 育書をよく読む高校生がいた。この本もなかなかの好著、古典古代も詳述されている。一 般読者に具体的なイメージを沸かすためにか、ある行に「アテナイを中心としたアッチカ 地方の面積は約2550平方キロ(佐賀県ぐらい)」とあった。彼がこの読書で自分の地佐賀 から古代ギリシアに思いを馳せたことは想像に難くない。後の卒業論文のソクラテスにつ ながったと考えても付会ではないだろうと思う。 原口君の、ICU5年目から断片を拾って稿を了えよう。彼は卒業後1年間、大学宗務部で 臨時のスタッフをつとめた。ICU教会は、学校の単なるチャペルとは違い、1つの単立の教 会である。私は当時キリスト者でなく、式典やオルガンコンサートで大学教会を身近に思 っていた程度だったが、彼はキリスト者の学生として、大学教会と宗務部に早くから出入 りし、教授でチャプレンの古屋安雄牧師や副牧師方、スタッフとも交流した。或る年、韓 国での教会ワークショップがあり、参加した彼が帰着早々流暢なハングルでにこにこ挨拶 してくれたのを覚えている。彼が卒業後の1年を、次のステップの準備期間と考えたかは わからない。業務をある程度知る彼が、宗務部の補助を務めたのも自然な道だったのだろ うか。その頃、彼の友人が茶化して「臨時副牧師代理補佐見習」と戯れ言を発した。ひょ っとすると彼みずからが、身を宙ぶらりんと自任し、おどけたのであったか。さて、確か この年の夏と思うが、私は休暇で帰省中の彼を佐賀に訪ねた。柳川の旅の折に寄せて頂い たのだ。話好きで堂々たる風格の御父上、上品で色白のお母上に、失礼乍ら「なるほど」 とも思ったことであった。原口君と言えば、いつも以上ににこやかに、労をいとわず1日 案内してくださった。曰く「城址。これが鯱の門。上に見えるのが佐賀の乱の銃弾痕 」、「旧藩主菩堤寺。巨大な踏石本体がこの下に」、「樹齢800年の大楠」、「佐賀平野 のクリーク。あれがかささぎ(地元でカチガラスと言ったようだ)の巣」、「小城のよう かん」、「大隈重信記念館」等々多数。地元をよく知っていたものだ。佐賀に生い立ち、 ギリシアをも思うというところか。その帰途だったか、「ここが教会」と彼が言った。近 所の佐賀バプテスト教会。高校生の彼はここに来て、ここに通い、加来国生師のもと受浸 、やがて牧師を志したのであった。佐賀を訪ねたこの夏から半年余りの1978年春、彼は西 南学院大学神学部に入学、牧師への道をゆく。原口君のICU時代は了った。
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