原口先生~つれづれなるままに
- family
- 2020年4月26日
- 読了時間: 8分
小河義伸
いつから「原口先生」と呼ぶようになったのか、記憶をたどっても定かではない。
「原口さん」でも「原口くん」でもなく、「徹さんや徹くん」でもなかったように思う。
まして「お前」や「あなた」などと呼んだことはない。
10年前の1月、重篤な状態の原口先生を北九州の病院に見舞った。
容態が安定していたので安心し、福岡の宿泊先に戻ったが、しばらくして急変したという連絡を受けた。
すでに北九州に向かう電車やバスはなくなっている時間で、無理を承知で友人の牧師に連絡して車を出してもらい一緒に病院に向かったが、着いた時にはすでに原口先生は息を引き取られた後だった。
病室で別れの時を持ち(記憶が正しければ、納棺も病室でおこなったのではなかと思う)、後日、小雪の舞う日にシオン山教会での告別式に参列し、棺を送るその時も「原口先生」と心の中で呼びかけていたのではないかと思っている。
原口先生と初めて会ったのは、彼がICUを卒業後1年して、神学校に編入学してからだった。
神学校での学びだけではなく、本学のチャペルクワイアの活動にも一緒に参加するなど、なぜか知らないが原口先生と行動を共にすることが多く、牧師になってからの夢や日本のキリスト教会の壮大なビジョンなど、何の根拠もなしに互いに熱く語り合っていた。年齢が一つ上で、その頃は「原口さん」と呼んでいたのかもしれないが、その記憶は全くない。
出会って間もなくして、交際していた岡本和子のことを紹介すると、原口先生と佐賀西高校の同級生で、しかもクラブ活動(確かワンダーフォーゲル部だと言っていたと思う)も一緒だったいうことで、原口先生は「僕が彼女を佐賀教会に誘ったんだよ」と少々自慢げに言っていた。
そんなことも、原口先生と親しい関係になった理由の一つかもしれない。
和子も原口先生から教会への誘いを受けたことやクラブ活動のことを覚えており、「原口さんは、佐賀の神童とみんなから呼ばれていたのよ」と言って、とても親しくできる関係ではなかったようだ。
和子が原口先生から佐賀教会への誘いを受けたのは、彼女が大分の佐伯から佐賀に転校した高校3年生の時だった。
佐伯時代、新聞部の同級生に熱心なクリスチャンがおり、しきりに教会に誘ってくるので少々疎ましく思っていた。
転校を機に、教会やクリスチャンとの関係を断つことができる、そう思って転校した学校でまた声をかけられたのでウンザリしており、その誘いには乗らず教会には行かなかったそうだ。
和子は高校卒業後、西南学院短期大学児童教育科に入学し女子寮に入った。その寮が教会の隣にあり、同寮の親しいクリスチャンの先輩や同級生が教会に通っていたこともあり、「どこに行ってもイエスさまから離れることはできない」と観念して教会に通い始め、荒瀬昇先生の特別伝道集会でバプテスマの決心をして受浸した。
だから原口先生との出会いも、和子がクリスチャンになるきっかけを作ってくれた一つであったことに間違いない。
その教会で私は和子と出会って結婚した。
原口先生は、当時のヨルダン社に勤務していた堤悦子さんと衝撃的な出会いをした。
あらゆる手立てを駆使して自分のパートナーとなってくれることを確信できた時の、原口先生が神学寮で見せた勝ち誇った笑顔は今でも忘れられない。
二人の結婚式は、私たちの結婚式後一年して西南学院教会で行われた。
その結婚式で、新郎新婦入場の曲に教団讃美歌の391「ナルドのつぼならねど」が選ばれ、パイプオルガンの奏楽の中を二人が歩いている姿に感動したことを覚えている。
このような感動は、原口先生の告別式で讃美歌21の575「球根の中には」が選ばれた時にも感じたことだった。
そういえば、神学寮では憚られるような歌も学生の間では愉快に歌っていたし、よくいろんな讃美歌を口ずさんでいた。
歌うのが好きで、その歌はジャンルにとらわれない選曲で、それは原口先生が関心や興味を持っていたこと、また牧師として負わなければならない課題であれば、どんな垣根でも超えることができる自由な(決して奔放ではない)性格だったからではないかと思う。
結婚後、神学校の家族寮に一緒に住むようになって、和子が悦子さんとも親しくなり、その後は家族同士の付き合いするようになり、牧師になってからはその付き合いは大きな励みだった。
4人のうちで私が一つ年下で、3人は同学年であったので、私は「原口さん」か「徹さん」と呼んでいたのかもしれないが、まったく記憶にない。
神学校では、原口先生はICUの学びもあったのだろう、すでに問題意識をもって学んでいたが、私は神学校での学びについていくのがやっとで、いろいろな刺激を受けていた。
原口先生の卒論は、パウロとエルサレム教会への献金をテーマに取り組んでいたように思う。
私は授業のレポートの評価が良かったテーマをもとに卒論を書いたが、読解力のなさと文章を書くことが苦手で、さんざん苦労した挙句、論文に要求されていたギリギリの字数での提出になった。
卒論提出締め切りは正月明けの1月10日で、悦子さんは第一子の出産で、和子も正月ということで長女を連れて、それぞれの両親のもと帰り、私たち2人は寮で互いに励まし合い(?)ながら卒論の仕上げに取り組み、提出締め切り当日にやっと出すことができた。
私は卒業後40年ほど経って、当時の指導教授から教会の愛餐会の場で、「あの論文はあまり良くなかったね!」と言われた。
それは自分自身が良く分かっていたことで、「そうでしたね」と返事するしかできなかった。
しかしその言葉は優しく私の耳に響き、むしろ卒業後ずいぶん経っている者を心を止め、祈りに覚え続けてくださっている教師の思いに感謝せずにはおれなかった。
原口先生の卒論の評価がどうであったかは知らないが、原口先生もまたその教師に愛情をもって関わり続けてもらっていたのは確かで、何年経っても卒業後の学生を篤い祈りに覚え続けてくださっている教師に今も励まされている。
神学校卒業後、互いに関東の教会(原口先生は市川八幡教会、私は川越伝道所)に赴任することになり、福岡空港から羽田空港に向かって同じ日の同じ便で出発しそれぞれの教会に赴任した。
6月着任後まもなく和子は第二子の出産で熊本の両親のもとに帰った。
第二子は低体重児で生まれたので、出産後しばらく熊本にとどまることになり、三カ月以上一人で生活することになった。
家族としばらく離れた一人での牧会を支えてくれたのは原口先生たちだった。
原口先生家族との交流は、ほぼ毎月なされた。
市川から川越に原口先生家族来訪する予定の日、到着してもいい時間になっても現れないのを心配していると、「途中で交通事故を起こしてしまった!」との連絡を受けた。
携帯電話がなかった時代で、公衆電話からの連絡で事故の詳細が分からず、いろんなことを想像して心配しながら現場(国道254号川越街道、東武東上線みずほ台近くだったと思う)に向かった。車は乗ることができないほど壊れていたが、幸い原口家族は大丈夫だったので安心し、川越に連れて行きいつもの交わりを楽しんだ。
こんなことがあっても、相互の行き来はその後も続き、それは私たちが川越を離れて福岡に転任するまで続いた。
原口先生は着任したそれぞれの教会で、その教会の宣教課題をしっかりと受け止めて牧師としての働きを担っていたと勝手に思っている。
市川八幡教会では、市川での宣教の広がりを実現するために、市川大野伝道所開設に奔走し、伝道所の場所選びや牧師の招聘のことを熱く語っていた姿を思い出す。
泉教会では、前任牧師の教会づくりのテーマを相対化して新たな教会の歩みを模索しながら牧会し、また附属幼稚園の働きを教会の働きとするために原口先生なりに取り組んでいた。若松教会は、新しい会堂が立ち上がった後を受けての働きであり、また附属幼稚園については、幼稚園学法化や新園舎の建築にも取り組み、地域の教会としての在り方を考えながら働いていたように思う。
直方教会は、病を負いながらの働きだったが、老朽化した会堂を新しくすることを考え、その地での教会の宣教の広がりを夢見ながら取り組んでおられた。連盟の協力伝道についても、壮大な夢を持っていて、それを時々会ったときに聞きながら、一緒に連盟のビジョンを語り合った。いつかはその夢を実現できるポジションに着いてくれるだろうと思っていたが、それは実現されることはなかった。
教会形成の課題、連盟協力伝道のビジョンを語る原口先生は、他の人がどう言おうと私にとっては常に一歩前を歩んでいてくれていた存在だった。
そういう関係だったからだろう、やはり「原口先生」と呼ぶのがしっくりしていたのだと思う。
牧師としては一歩前を歩んでいた原口先生だが、人生の歩みは私たちの方が一歩先を行っていたことは確かだ。
私たちが結婚した後一年後に、原口先生は悦子さんと結婚し、第一子の喜びを経験したのも私たちの一年後、最初の教会を辞して次の教会に赴任するようになったのも、私たちが先でその後に原口先生が新たな教会に赴任するようになった。
そこまで付き合わなくても良いのにと思っていたが、和子が召された後に、原口先生もイエス・キリストに召された。
二人を知る人たちは、10年が過ぎても天国のイエス・キリストの周りが賑やかなままだろうと言っていると思うが、私もそうだと思う。その分、こちら側が少し静かになったと言えるかと思うとそうでもない。
二人が指し示してくれている永遠の朝を希望しながらもうしばらく賑やかにしてキリストの教会に仕えさせていただきたいと思ってる。原口先生のように上手くは歌えないが、「いのちの終わりは、いのちの始め。恐れは信仰に、死は復活に。ついに変えられる、永遠の朝。その日、その時を、ただ神が知る」の讃美歌を口ずさみながら。
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