フツーの天才
- family
- 2020年4月26日
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釧路キリスト教会牧師 奥村敏夫
彼との出会いは衝撃的だった。「えっ。この人?」と驚いたことを覚えている。かつて連盟の「少年少女大会準備委員会」の委員をしていた私に、委員をしている牧師が「奥村先生に是非合わせたい人がいるんだけれど。彼は佐賀で一番の学校を卒業して、国際基督教大学(I.C.U)を卒業し、西南の神学部を出た人で、「天才」とか「神童」とか呼ばれている人物と紹介してくれた。興味を覚えてモウソウを抱きつつ緊張のうちに初めて出合った時のことだ。
一見フツーの、どこか人懐っこい、あえて言えば可愛い“弟”のような印象だった。それが想えば30数年に及ぶ今風に言い表せば後に「濃厚接触者」の一人になるとは思いもしなかった。その委員会で、同じ委員として毎年四回程度一緒に議論したり作業したり交わりを何年も深めるにつれ、仲間たちの中でも異才を放ち、ユニークだけれど面白い彼のキャラクターと才能に圧倒され、非凡さに触れたことは忘れ難い。
歳は多少若かったが、同じ牧師中間としてよく一緒に遊んだ。私が東京暮らしをし、彼が若松にいた時に、牧師仲間から「西の原口、東の奥村」と遊び人牧師の横綱級と呼ばれた時期もあった。
その後私が福岡に移ってからは、文字通り家族ぐるみの交わりが続いた。
釣りを一緒にしたり、「中国語研究会」(?)を深夜まで二組の夫婦で楽しみながら、牧会談義の中で教えられ、気付かされることも多かった。
委員会のころからずっと深く共感できるものがあった。
牧会は伝道とか教会形成だけではなく、歴史的視点を持ち、キリスト者は社会的な問題と取り組みながら主を告白していくことが大事。このトーンは彼が生涯にしてきたテーマでもある。
彼は教会をこよなく愛し、同時に時代の中で取り残されがちな“少数者”の側にいつも立とうとして実践して来た人物である。互いに人生の一番充実した三十数年の深い交わりの中で、歳下ながら彼に刺激され、触発され、教えられたことは多かった。
いつしか小河牧師と彼と私の三家族で、老後に一緒に「村」を作って暮らそうか。
男たちは釣りに励み、料理はマイスターの悦子さんに・・・・等々と夢を語り合ったこともあった。
しかし、若くして小河先生の連れ合いが召され、そして遂に元気なはずの原口先生も惜しまれつつ先に逝ってしまった。
あの夢はしかし、この地上ではない所で実現していくような気がしてならない。
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